Acceptance of Dickens in Japan
Japan Society for the Promotion of Science:Grants-in-Aid for Scientific Research Grant-in-Aid for Early-Career Scientists
Date (from‐to) : 2021/04 -2024/03
Author : 杉田 貴瑞
当該年度は、研究計画に従って、坪内逍遥や夏目漱石などの明治期の日本近代作家たちによるディケンズへの言及を調査した。『小説神髄』においてディケンズの作品を取り上げるだけでなく、日記の中でも言及するなど、逍遥はディケンズという作家の力量、とりわけ彼の描く人物たちや描写の力を肯定的に評価していた。一方で、漱石はディケンズ作品における人物造形を認めつつも、あまりに多くの作中人物が雑多に登場するあり方や、作品構成の統一感の欠如に対して不満を持っていた。つまり、逍遥と漱石のいずれもが人物造形を認めつつも、その評価は対照的であったということになる。
一方で、これらふたりの評価に関して、明治期の翻訳・翻案全体における問題意識からすると、重要な視点がひとつ抜け落ちている。それは、語りにおける人称の問題である。明治期以前には、人称という概念が希薄であり、代名詞がふんだんに盛り込まれる外国文学の翻訳・翻案においてひとつの壁でもあった。ディケンズの作品もほとんどが三人称で書かれており、訳者、とりわけ明治の訳者たちはこの壁に挑まなければならなかった。実際初期の翻訳作品においては、一人称と三人称が混ざったような混乱した語りが見られ、その困難が明らかになっている。
この問題を解決するためにも、翻訳・翻案の起点となるディケンズ作品の語りに注目して、学会発表を行った。扱った作品は『デイヴィッド・コパーフィールド』であり、ディケンズのなかでも珍しい一人称の語りを採用している。この発表においては、自身の過去を振り返り、その教訓を得ようとするはずの自伝的語りであるにも拘らず、過去の自身にアイロニカルな眼を向けることが出来ずにいる主人公の特異性を明らかにした。ディケンズ作品の語りの問題を精査することで、翻訳作品における人称の問題にもつなげる基礎を固められた。